講評

審査員3名の方から、講評が届きました。


青年団リンク キュイ主宰

綾門優季

 

◎Aブロック

 

1.劇団バッカスの水族館

僕の中の決勝2位です。

面白そうな雰囲気はあるものの、一定のスピードと喋り方で目の前をつるつると滑っていくばかりで、観客がひとつひとつを受け取める前に物語が進んでいくのは、たとえそれが作風なのだとしても、演出の調整でもう少しどうにかなるのではないかと思いました。テーマ自体も、ジェンダー観が古風なもので(恐らく年上である僕が古風だと捉えるというのは相当に古いです)、この物語にとって重要なモチーフであるはずの「夫」の描かれ方が雑に過ぎるため、女性のなにか言っているようでなにも言っていない言葉が空回りするだけだった戯曲にも大いに問題があります。『逃げ恥』をはじめとしてジャンルを問わず、結婚観を大きく揺さぶってくる作品が多い昨今、ややこしい言葉の裏に隠れているステレオタイプな価値観には疑問を抱きました。とはいえ、言葉選びにオリジナリティを見出だせるのは確かなこと、予選と比べて決勝は図抜けて上演の出来が良かったことから、次点に推すこと自体に躊躇いはありません。

 

2.女塾

漫才を微妙に変えながら何度も繰り返す戯曲の構造自体はそこそこ面白かったのですが、内容については…。保毛尾田保毛男騒動って知ってますか? ゲイの描かれ方について激しい拒絶感を覚え、笑わせ方についても内輪的な、いわゆる男子校の悪ノリ以上のものは感じられなかったため、「敵」と化す観客が多いことに無自覚な、甘えの多い作品だという印象です。僕も男性なので、修学旅行の男部屋で「俺ら最高に面白くね?」みたいな空気、まあわかりますけど、男部屋の外に出したらそのうち八割は面白くありません(当社比)。ギャグ→説明→ギャグ→説明…で、流れが止まってしまったシーンも見受けられました。説明なしで次々とギャグ言っていいよ! 「やっちまう」前によくよく吟味して下さい。

 

3.在り処

僕の中の予選4位です。

荒削りではあったんですが、彼氏にレイプされたあとの精神のグチャグチャする期間という描きにくい事柄を、ステレオタイプではなく、曲がりなりにも自らの声で不器用でも語ろうとした痕跡が見え、好印象をもちました。フラッシュバックが何度も来る部分の突然さにはこちらも意表をつかれただけに、ある程度予想のつくラストシーンからもう一歩先をみせてもらえたら、また印象は違ったことでしょう。楽曲のメッセージ性そのものがかなり強いMASS OF THE FERMENTING DREGSを流して感傷に浸らせようとするような安易さ、俳優の役がめまぐるしく入れ替わることの果たしている機能など、効果的な部分と熟考の余地がある部分にわかれ、まだまだ整理が必要な作品だとは思いましたが、題材がバチッとハマると物凄い爆発力を秘めているイメージがあります。今後を追いたくなる作風です。

 

4.劇団イマココデ

一回ひっくり返すだけだとこの尺はもたないって! いまどき5分の漫才でも何度も何度も観客の思い込みをひっくり返すのに、「実は現実じゃなくてゲームでした」というドッキリ(いや映像のヒントがデカ過ぎるから何となく予測がついたひとは割といるでしょうが)に賭けすぎていて、他のディテールの作り込みが脆いのではないでしょうか。「前半はこういう感じ、後半はこういう感じ」でそれぞれのっぺり作られてもなあ。前半のゲーム世界はともかく、後半の現実の会社がどうにも会社にみえてこないのはなかなか致命傷。180度ぐるっとひっくり返すのもいいですが、あいだに90度や120度ぐらいの「焦らし」や「ズラし」でハラハラさせることが出来れば、最後まで引っ張れたかもしれません。

 

◎Bブロック

 

1.中京大学演劇部劇団いかづち

説明ゼリフが多すぎてほとんどのギャグを殺しているのは何とかならないの、言われなくてもみればわかるよ、とイライラしながら観ました。冒頭のケーキのくだりは代表的な例で、あれだけどうでもいいシーンの状況を丁寧に追われてもね…。ギャグっぽく普通のことを言うのはやめてほしいです。最後まで一度も笑えませんでした。突飛なことをしても説明抜きで意外と観客はついてこれるので、どうか信用して下さい。Bブロックには他にもインベーダーものを上演した団体があったため、正体不明さや不気味さ、想像を絶する法則で動いている感じがどうしても乏しく、見劣りしたのも事実です。一般人とインベーダーの演技体があれだけ似ていることが効果的であるようには思えませんでした。

 

2.劇団かのこ

僕の中の決勝5位です。

大したこと言ってないのに佇まいだけで笑わせてくるパンダは良かったです。なんだあいつ。他のキャラクターも立っていて、ひとつひとつの笑いどころで的確に笑わせていました。が、うーん…。物語で惹きつけられる部分は特になかったです。キャラはそれぞれ変なのに、筋は驚くほど素朴というか。個性が物語の進行にあまり絡んでこないもどかしさを抱いてしまいました。それぞれのシーンの結びつきも必然性が弱く、バラバラのまま納得出来る材料が揃わずに終わってしまった印象でした。ただ明るさをキープしたまま目の前を通り過ぎていったような。全体的に音楽に依存しすぎていて、観客の感情のコントロールを、ほとんど音楽に任せきりだったのにも抵抗感を覚えました。場当たり的な面白さだけではなく、全体を通して、ズシン、と胸に来る何かがあれば良かったんですけど…。

 

3.でんでら

僕の中の決勝3位です。

予選で審査員枠を選ぶ際に、唯一でんでらに票を入れなかった審査員なので(在り処を推しました)、何故なのか理由を明確に述べておきます。僕は作風的に広義のサイコホラーに分類される作品が多く、犯罪者の伝記や犯罪心理学の本などを日常的に読んでいるため、殺人について人より少しは詳しい自負がありますが、金でモメて一人殺して指名手配され、逃走している二人がどうしても書き割りのように思えてなりませんでした。宇宙人の家族に現実味がないので、犯人には現実味を帯びさせて、そのギャップをみせるべきではないでしょうか。宇宙人のずっと無意味にニコニコしている得体の知れなさは良かったですが…。ニュースも非常に都合良く出来ていて、ちゃんと裏取りしたのか疑いが芽生え、その時点で犯人の二人はただの設定でこの場にいるだけの人物のように感じられ、興味を削がれました。人肉を殺人犯に鍋で食べさせる、という一見後味の悪そうなオチについても、むしろ人を殺したあとだから麻痺して美味しく食える、ぐらいまでいったほうがグロくないでしょうか? ラストで状況を解説しすぎで、「人の肉」という言葉を使わなくても観客には何となく察せられる、ぐらいに留めておいたほうがゾクゾクするんじゃないかなあ、好みの問題かなあ…。突飛な設定であるにも関わらず案外常識に縛られた作品と捉えたため、僕は推せませんでした。と、ここまで書くとけちょんけちょんなようですが、決勝を終えた段階ではバッカスの水族館とでんでらとfooorkの三つ巴だと捉えており、非常に惜しいところまで来ていたことは疑いません。俳優はみな達者でした。

 

4.公募枠

僕の中の予選3位です。

アリについてのつまらないジョークを執拗に重ねていくことでジョークそのものとはまた別の「根負けして笑わざるを得なくなる」効果や、女の子が何の理由も説明されることなく出はけのたびに何故か怪我が増えていくことのしんどさ、ラストシーンの生死の概念がぶち壊れたのか悟りを開いたのか、全員猛スピードで無言で大量のアリを潰していくヤバさ、本気で震えるシーンがいくつもある作品でした。みせかけの狂気ではなく、その場で逃げたくなるような狂気に観客を巻き込む手腕に感服しましたが、かなりのスロースターターで、ようやく興味深く見始めたあたりで終わってしまう食い足りなさはありました。でも長編をみてみたいと思わせてくれました。凄いところにこれから案内してくれるかもという期待を抱けたこと、容易に真似することの出来ない境地に既に達しているということから、作・演出の新宮虎太朗さんに個人賞を差し上げました。

 

◎Cブロック

 

1.魚眼ベニショウガ

暗転直後の巨大テディベアや、手足を小刻みに横に動かす独特の走り方、モテるためには個性が大事と「どこで買えるのそれ」って首を傾げたくなるほどダサいTシャツを突然着用するなど、ところどころ光るギャグはあるのですが、いかんせんテーマが「好きな彼女に振り向いてほしい」というシンプルなもので、ラストも「まあそうなるよね」というところに落ち着き、どこか遠いところへ連れて行ってくれるのかと思いきや、意外と近所に軟着陸した残念感がありました。あとひとひねり、いやふたひねりはしてほしかったです。去年も出ている団体で、その時も「微妙に面白いなあ、嫌いになれないなあ」って感想だったんですが、この「微妙に」の部分をどうやって取り除けるのかが勝負どころかと。個人的には微妙に面白いのも好きですけどね。演劇祭を勝ち上がるのには向いてないかも。

 

2.劇団ひととせ東海支部

僕の中の予選5位です。

内容はもうベタベタのベタで生理的に無理。の一言なのですが(女の子自殺して感動させる系、余程のことがないかぎりあまり好きになれません…)上演方法にかなり独創性を感じました。そこまで凝った映像ではないのですが、パワポ逆再生ややたらと入り組んだ人物相関図、必ずしもセリフの意味をそのまま反映していない雨の表現の仕方など「おっ」という声が出るようなアイデアがいくつもあり、生理的に無理。と思いながらも結局最後まで退屈せずに観ることが出来てしまったので、仕掛けの多さとしては◎。どこかから借りてきたような人物造形じゃなければ、結構好評価だったはずです。

 

3.fooork

僕の中の予選2位、決勝1位です。

とにかく一輪車を使い倒す、という謎の強烈なこだわりで仕上げてきた作品。伝えたいことがあるというよりも、どちらかというと一輪車先行で団体が成立したと聞いて得心しました。よくよく考えると物語のメッセージ自体に新鮮なものはそこまでないのですが、上演を観ているあいだは狂気のフチに立たされたように思い込ませる演技の迫力、そして何より一輪車の使い倒し方がもう本当に凄い。ハンドル、腕、タイムトラベルの象徴…と次々変化していく一輪車の見立てを観客に信じ込ませる、アクロバティックな力業の数々。後半は特に予測出来ない展開で振り回し続け、最後までダレずにラストまで走りきっていたのは、あっぱれとしか言いようがない神業でした。危ない綱渡りに成功した稀有な例。どうやってつくるのこれ? と審査員が言ってしまったら負けです。つまり負けました。

 

◎Dブロック

 

1.随想あけぼの

僕の中の決勝4位です。

漂わせたい雰囲気は良かったし、セリフも聞き惚れる部分はありましたが、いかんせん重要な要素のほとんどが原案と書かれてある『夢十夜』に頼りすぎていて、夏目漱石はやっぱいいよね、という確認するまでもないことを確認するだけの時間になる危うさを孕んでいました。原案から勇気を持って逸脱した展開にしても、ぜんぜん壊れない程度には強固な世界観を提示出来ていたのに、なんだかもったいなかったです。ただ逸脱と無駄な付け足しは別で、元大学のクラスメイト登場のくだりのとってつけた感はどうにも拭い難かったので、世界観の調和のためのシーンの取捨選択については、くれぐれも慎重にお願いいたします。オリジナリティをいちばん感じたのは舞台美術。今回の演劇祭では最も力の入ったヴィジュアルを呈示していたので、杉本竜也さんには個人賞を差し上げました。

 

2.モルモット

去年と同じ言葉の繰り返しになる部分もありますが、作家っていうのはこういう職業じゃないです。僕は作家を農家と似た職業だと捉えていますが、例えば「わたし、君のにんじん好きだな」とか「いつかにんじん1000本取れる日が来ると信じて」とか「畑なんか耕して何の意味があるんだ!」とか言われても困りませんか? 四の五の言わずに納品日までににんじん納品しろや、畑耕さないと収穫もままならねえだろうがクワ持てクワ、と吠えたくもなるでしょう。次々迫る〆切に、何とか間に合うように死んだ目で原稿をさばいていくような感じが微塵もなく、理想化が激しすぎてついていけない、と少し引いてしまいました。特殊な設定だとしても、信憑性に欠けていたと思います。ドライなはずの編集者も優しすぎ。ぜんぜんドライじゃなかった。もっと鬼になって。集団で動くシーンも、もっともっとビシッとやれるはず。

 

3.名古屋芸術大学演劇部劇団超熟アトミックス

審査員に喧嘩売るつもりなら買いますが、メタ批判の分析が弱くて前半で失速して後半で死ぬほどダレてますよね。ネタの量が尺に対して少ない。ブーブー言う程度じゃなくて殺す気でかかってきてほしかったです。ブーブー言うのがゆるふわギャグとしてところどころ成立している部分もありましたが、ただ練り込みが甘く単調でダラダラしているだけに見えた部分もありました。去年も出てたんですし、多角的な観点から、辛辣で悪質なおふざけを演劇祭に向けて仕掛けることだって出来たはずです。通りがかりに半笑いでデコピンされたら真顔で飛び蹴りするタイプの人間なので、飛び蹴りする前にノックアウトして下さい。冷笑するだけなら誰にでも出来ますが、問題はその後の戦略です。

 

4.シラカン

僕の中の予選1位です。

くじらに見立てられた大量の黒いビニール袋を引きずってきて解体しようとする冒頭シーンから、観客を独自の世界観に引きずり込むまでのスピードが極めて速い。登場人物は全員が全員、多かれ少なかれトチ狂っていて、噛み合うようで噛み合わない会話が延々と続き、シッチャカメッチャカになるのかと思えば、どうでもよさそうな会話がちゃんと伏線として機能し、ラストシーンに収斂していく話運びの巧みさに目を瞠りました。コーラ飲んだことない人がコーラじゃない毒? を飲んでコーラじゃないと気づかずに美味しいって言って即死する場面とか、どうやって思いついたんでしょう。変なギャグがぎっしり詰め込まれており、そのどれもが観客をわかせていました。俳優4名はいずれも好演していましたが、いちばん真面目なことを言っているのにいちばんヤバい奴のように見え、ボケとツッコミを同時に行っているようなたいへん癖のある演技で場を引っ掻き回していた春木来智さんに、個人賞を差し上げました。

 

◎総評

 

波乱含みの演劇祭でした。

ブロック順に、A3の在り処、B4の公募枠、C2の劇団ひととせ東海支部、C3のfooork、D4のシラカンが議論に値する団体という認識で審査会に臨みましたが、それぞれの講評で示したとおり決勝進出団体との食い違いが凄まじく、fooork以外が予選で脱落するという想像を絶する事態が起きたため、久々に審査会で動揺を露わにしました。僕の中の決勝は予選でほとんど終わったといっても過言ではなく、こうなってしまうと余程の番狂わせが起きないかぎり、決勝でfooorkを推さざるを得ません。バッカスの水族館は決勝で相当伸びましたが(もし台風で決勝が全て中止になっていたとしたら2位は別の団体にしていたことでしょう)、fooorkの独走を覆すほどではない、という認識で決勝審査に臨みました。

決勝審査は対立もなく極めてスムーズで、審査員賞をfooorkに出すことについても、2位をバッカスの水族館に決めることについても異議はありませんでしたが、予選審査はまさに台風が直撃したような騒ぎでした。

昨年の予選審査が一瞬で勝負は決したのと比べ、今年は相当長丁場の議論を強いられ、話は二転三転しました。審査員三名は議論の始めで、在り処、でんでら、fooork、シラカンの4団体がそれぞれのブロックの代表的な団体だという認識にまではすんなりとたどり着きましたが、観客投票では決勝にfooorkしか進出しなかったという事実、今年名古屋からは2団体が全国へ進むという事実、そしてその中で上演が圧倒的だったのは既に全国の経験を持ち、全国に進む権利をあらかじめ持たないシラカンだったという事実に、どうすればいいのかわけがわからなくなった時間がありました。審査員の仕事をとにかく面白いものを選ぶこととするなら審査員枠でシラカンを推すべきですが、名古屋から代表を2団体送り出す、その才能を厳密に選ぶことに重心を置くならば、予選の段階でシラカンを除くと審査員の中ではベスト3に食い込んでいた在り処かでんでらの、どちらか1団体だけでも全国へ進出する可能性を開いておきたいという気持ちがありました。迷った末にわたしたちは後者の選択肢を選び、そのうえで在り処を推したのは僕だけで、でんでらの進出を積極的に反対したいほどの根拠もなかったため(気づいていなかった作品の良さをお二人に教えていただきました)、最終的にはでんでらに落ち着きましたが、途中までどこになるのか審査しているこちらも見失うほど、あらゆる可能性が審議された場でした。

観客投票と審査員の判断の食い違いについてですが、原因のひとつに、いわゆる「怖い系」はクオリティに関わらず、得票数が伸び悩む傾向にあったことが挙げられると思います。「呪い殺し方が雑だったのか?」とかではなくそもそも「呪い殺す」時点でアウトになってしまう観客が一定数いる感じというか。これは学生演劇祭のシステムそのものが孕んでいる罠なので、「怖い系」の作品の人たちは無理に迎合せず、これからも「怖い系」でいてください! と「怖い系」劇作家の僕としては陰気なエールをかすれた声で送りたいところです。勝手に「怖い系」呼ばわりしていた場合はすみません。

全体を通して少し想起したのは、國分功一郎『中動態の世界』でした。ほとんどの作品が能動と受動で成り立っていて、あいだの言葉やキャラクターが存在しないことに強い違和感を持ちました。僕は人から「天然ボケ」と言われたことも「ツッコミが激しすぎる」と言われたこともありますが、特に人によって対応をガラッと変えているわけではありません。そのあいだの揺らぎのうえに立っているのです。大勢揃っていたとしても、ツッコミ役がツッコミを言い、ボケ役がボケを言い、どのような出来事があろうと役割が変わらない世界に、途中で耐え難い息苦しさを感じてしまいました。その息苦しさを感じなかったのは、公募枠、fooork、シラカンの3団体だけ。僕の中のベスト3でした。


空宙空地 代表

おぐりまさこ

 

◎はじめに

 

まずは参加団体の皆さま、実行委員・スタッフの皆さま本当にお疲れさまでした。
様々なイレギュラーの中、一致団結して閉幕を迎えられたこと、素晴らしいと思います。決勝戦は台風ほぼ直撃の中、1ステージ上演してお客さまにも観ていただいた…ということで、猛烈な風の中帰られた方々が、どうかご無事であったこと、心から願っております。
各団体の講評に移る前に、少しだけ。

昨年からこの演劇祭の審査員として参加させていただいておりますが、昨年と今年で大きく違うことが一つありました。予選から決勝への審査員推薦枠団体の選出についてです。講評会でお伝えしたことと被りますが、来られていない方、また興味を持っておられるお客様へ向けてもお知らせしたいので。

昨年、審査員が決勝へ推した団体は、審査員全員が納得の実力を持ち、決勝へ行って欲しい団体の中でのトップを推せました。今年は、審査員が話し合った結果、推したかったのはシラカンでした。私の中でも、飛び抜けて、一人でも多くの方に観てもらいたい作品でした。それなのに実際は次点団体を推した理由としては、決勝へ向けての観客票・参加団体票の結果と、審査員の感じた結果との差があまりにもあったため、今回審査員が選ぶべきは、圏外枠団体ではなく、全国進出権のある団体だということになりました。そういった経緯です。
とはいえ、決勝へ進んだ団体も、残念ながら予選突破ならなかった団体も、僅差のものが多かったです。私は俳優が主なので、その観点から演技に対して感じたことは、各団体講評の中に散りばめました。また、創作の独自性や感覚、もちろん技術も、これからどんどん伸ばしていけると思います。今回感じた悔しさやもどかしさ、自身がついたことや嬉しかったこと、全てがあなたの糧になり得ると思います。糧にするかどうかは、皆さん次第。どうか今回の参加で過ごした時間や、感じたことを、これからの活動に活かせますように。応援しています!

では各団体の講評をさせていただきます。


◎Aブロック

 

1. 劇団バッカスの水族館「結婚したら両目を瞑れ」
アップテンポな会話劇。結婚生活を始めて「こんなはずじゃなかった」が蓄積してしまった若い主婦が、友人が関与する宗教的思想団体によっていつの間にか思考を変えられていった(もしくは心の深淵にある「こうであってほしい」という思いに飲み込まれていったのかもしれない)。そんな、物語仕立ての作品でした。主人公の女性がそんな思想の中に呑み込まれていく様を表すのに、畳みかけるような言葉の応酬が有効的でした。ただ「結婚生活」が大きなベースとなる作品を、それを実際に体感したことがない座組で創るのは、かなり大変なことだったと思います。再演に際しては、さらにリサーチや落とし込みが必要かと感じました。また、音響効果にもう一つ工夫がいるかと。早いスピードの台詞でたくさんの情報を伝えるときに、同じ言語(今作は日本語)の歌詞が入っている音楽を流すと、情報が混ざってしまって、結果、内容が入って来なくなります。「大多数の観客はその言葉を初めて聞く」ということを稽古していくうちに耳慣れたつくり手は忘れがちです。
もう一つ、私自身も自団体でアップテンポな会話劇をやっておりますが、一番大切にしてるのは、いかにしっかりと影響を「受ける」か、ということ。ちゃんと受けた上で、相手を、自分をどうしたいかを的確に投げること。これも稽古して慣れてくると、ずさんになりがちです。感情めいた表層のものを台詞の色として乗せるだけでは「会話」にならないため、何を話しているか聴き取るのにかなりのエネルギーを使ってしまい、肝心なことが伝わりづらくなる。この作品も、発語の一つ一つ、例えば「え?」「うん」などの短い言葉にもそういった意識が必要かもしれません。全国大会に向けて、さらなる準備を期待しています。


2. 女塾「背後霊」
二人組の若手漫才師に背後霊が取り憑いたことにより、コンビ間に不穏な空気が流れ、やがて崩壊に向かって行くという流れ。コント的色合いの強い作品だと感じました。今回の演劇祭「20分の短編」向きの題材ではあったかと思います。背後霊の佇まいや短いシーンの積み重ねで、観客を飽きさせない作りを意識していたのが、この作品の魅力でした。
構成とやりとりで気になったことを一つ。背後霊に取り憑かれているけれどそれが見えない男と、それが見えてしまっている相方の男が漫才の稽古をする中、見えてしまっている男にちょっかいをかける背後霊。この三人のやりとりで進んで行きます。「霊が取り憑いてるぞ」と言う相方の言葉を一蹴して稽古を続けようとする相方…だったのですが、ここに、エチュードの鉄則「イエス・アンド」を組み入れたら(一度その言葉を受けた上で進めていく)、もう少し、演劇作品としての有機的な笑いや展開が生まれたのではないかと感じました。もしかしたら、想定するラストシーンに向けてまっしぐらに走るためにそうしたのかな?とも取れました。想定したラストに行くのはとても大変で、逆にそれを忘れてみたら、思いもよらぬ鮮かなラストシーンに繋る事もあります。やりとりで進む物語の中では「なぜそうしたのか」「なぜそう言うのか」といったことがぼやけると、疑問の位置で立ち止まってしまう観客も少なくありません。そういうことを意識すると、笑いプラス、の魅力が増える作品だと思いました。


3. 在り処「終わりのないわたしたちが目覚めるとき」
4人の俳優が、いろいろな役を入れ代わり立ち代わり演じ、女子大生が過去に負った心の傷のフラッシュバックに苦悶する姿を巧く描いた作品。大小様々ではあるけれど、人は心に傷を受けたり、それを急に思い出して、落ち込んだり怖くなったり人とうまく話せなくなったりすることがあると思います。そういった意味で共感性の高い作品だったかと。目まぐるしく、そして突然変わる役どころに、一体何人出てくる話なのか、今この人は誰なのか、そういった迷子感も、この作品の魅力となっていたように感じました。等身大の問題が題材になっていた事も、真実味を帯びていました。
ただ演技と、演技面への演出が気になりました。事象が重いため、なかなかに演じるのは大変だったかと思いますが、心情を強い言葉で吐露するとき、そこまで高ぶっていない状態で声を荒げたりすると、かえって伝わりづらい。膨らんでいない水風船の口からは、勢いよく水は飛び出しません。こういう時、俳優はなんとか心情を絞り出そうとして、下を向いて叫んだりしがちです。本能的に、自分の内側を見て鏡に写すように、高ぶりを増やそうとするのではないかとよく思います。が、溜まっていない感情を絞り出すと内側はさらに薄まってしまうので、次の行動は空の状態から始めなければなりません。これだと、観客に登場人物の内情をビリビリと伝えるのはなかなかに難しい。そんな時は「もっと叫ぶ」ではなく、「溜め込んで、耐えきれなくなった状態でこぼす」といった事も試してみてほしいです。
観客の感受性のアンテナを、もっと信じてもいいのでは?この作品に限らず、いろんなところでそういったことを思います。


4. 劇団イマココデ「SAKURA〜shiny life〜」
新入社員の奮闘記、かと思いきや、他人と関わることをやめてしまい、空想の世界に没頭してしまった一人の女性の物語でした。意図的にされたであろう薄っぺらい職場風景のスライド投影背景、人物設定、演技。それが意図的な薄っぺらさだということに途中で気づきましたが、初めは違和感を覚えつつもすっかり騙されました。
この作品には、二つの難しさがあったかと。
まずは正社員として働いたことのない人が大半の座組だったんじゃないかな?という点。もう一つは、前半後半での演技の落差をつけなければいけなかった点。この二つの難関がもたらしたデメリットは、「臨場感と説得力の不在」。
前半と後半で、演技のトーンが同じだったこともあり、うまくどんでん返せていない印象でした。後半のネタバレを避ける意図だったかもしれませんが、前半の演技も割とナチュラルなトーンで演じられていたので、仮想世界感というか、ある種の気味悪さみたいなものが感じられず、ちょっと勿体ないなと。また後半は逆に、登場人物の心理の掘り下げが不足しているように感じました。外界との接触を拒絶してしまった女性からは「なぜそうなったか」「今何を思っているのか」が、また心配する家族からは「彼女がいつからそうしているのか」「どれくらい深刻な状況なのか」が、今ひとつ落とし込めていないのではないかと感じました。それを観客に説明する必要なないのですが、台本や台詞にない背景を落とし込まないと、わからない部分はどうしてもステレオタイプに演じてしまい、人物像の厚みや臨場感にかけてしまいます。
俳優にとっても、作家演出家にとっても、そして観客にとっても、なかなかに難しい作品だったかと思います。


◎Bブロック

 

1. 中京大学演劇部劇団いかづち「すいーつ・いんべーだー」
大好きなお店の、とっておきのショートケーキを買って帰ってきた女。紅茶を淹れようと離れた時に訪ねてきた友人がチャイムを鳴らすことなく入ってきて、ケーキを食べてしまう。それを攻められ帰ろうとする友人に、「ケーキを返せ」と迫る女。友人は仕方なくケーキを買いに行くが、「モンブラン」と書かれたカードを首から下げた、明らかに人間を連れて来た。話もするモンブラン。コンビニで買ってきた「あなたの嫌いなモンブラン」だそうだ。友人にも人間に見えているようで、話している。後からやってきた、自分もスイーツだと名乗る男(いちご大福)が加わり、不思議な会話は進んで行く。その中で友人は女に「ママのケーキが忘れられないんでしょう?」と問いかける。やがて女は、友人に食べられ空になったケーキの箱から何かを取り出す素振りをし、「私が食べるべきなのはこれだ」と口にした。
印象に残っているやりとりをまとめると、こういった流れ。メタファーとしてスイーツを使っているのだとは思ったが、どう観て行くべきかを探っているうちに終演となってしまった。食べ物とも意思疎通ができる世界なのだろうか。それとも、この家の主である女の、脳内世界なのだろうか。そもそも友人は、何をしにこの部屋に来て、なぜ居続け、なぜ嫌いと知っているモンブランを選んだのか。
創り手の中では、何か意思や目的があってそうしているのかもしれないが、それがなかなか腑に落ちてこない。脚本・演出にも要因があるとは思うが、演じる俳優が、それぞれ発語や行動に「目的と動機」を持てていないようにも感じた。なぜ、その人にそれを言うのか。なぜその場に留まるのか。何がきっかけで、どう心境が変化するのか。抽象的な世界観こそ、そういったことが強くあると、本質が伝わるかと思います。


2. 劇団かのこ「夏休みはじめました」
主人公「タニハル」はある日教師に呼び出され、「あなたに夏休みはあげません」と突然の通告を受ける。これまでの校則違反に対して「人を感動させる反省文を書く」という課題が出された。反省文を書くために、友人と、代筆を生業とする?高校生が手を貸す。素性の知れない同級生(実は未来から来たタニハルの娘と思われる)と、何やら秘密を知っていそうな教師と共に話は展開して行く。
20分の短編にしては、仕掛けが盛り沢山すぎる印象。スタートは「夏休みがなくなる」で、後半は、ひいおばあちゃんから代々受け継がれてきた浴衣を、幼いころ自分が駄目にしてしまったことが話のキーになっていくが、巧く活かせていないように感じた。もしかしたら、思いついたアイデアを抜粋できず、一つでも多く盛り込もうとしているか、「この俳優にこんなことをさせたい」といった思いがあったのかもしれないとも感じた。
演技について。そんな展開やアイデアの多さが原因か、自分がなぜそこにいるのか、その場をどうしたいのか、何に影響を受けて気持ちが動いたのかが、頭と体に落ちていない印象。冒頭からラストにかけて、なぜ・どう変化していったのかが俳優の、そして登場人物の心身で繋がらないと、事象の積み重ねが大きく影響する作品の中に立つとき、「俳優が落ち着かない身体」が目立ってしまいます。結果、台詞の文字や動きの段取りが俳優の身体や表情に透けて見えてしまったり、ステレオタイプな表面上の演技になってしまいがちです。掛け合いのリズムが心地よかった分、少し残念でした。

 

3.でんでら「淡々と段々と鳴った」
座卓を囲む学生服姿の3人の男女。鍋に箸を伸ばすと、煮えたぎる音が心象風景と重なって大きくなっていく。兄妹のような、やけに明るい男女が暮らすその部屋に忍び込んだ二人組の殺人容疑逃走犯は、あっけなく3人に見つかり「家族になろう」と持ちかけられる。やがてその3人の素性が徐々に明らかになり、その明朗さとは裏腹の深淵が透けて見えてくる。
脚本の構成がしっかりしていて、さらに演出効果も巧みでした。妹と呼ばれる女子高生は、笑顔が絶えないが実は肉親から虐待を受け、その状況から逃げたがっていた。そこにやって来た異星人は、人間のことを知りたがっていた。ここに利害関係が一致し、一見明るい「擬似家族」を作り出した。逃走資金を調達するため忍び込んだ逃走犯は、その場を取り繕っているうち逃げられない状況に。彼らが殺人を犯した背景や、それぞれの登場人物の事情なども描かれていて、「そこにいること」に無理がない。だから素直にストーリーを追って行けた。逃走犯女性のデフォルメされた演技も、目的と動機がしっかりあるため、作品のスパイスとしてうまく作用していたように思う。赤い照明や音響も効果的に使われていて、俳優たちもみんな魅力的なキャラクターで、しっかりと自分たちがどう居るべきかを押さえていて、創作・上演の総合力が高かったように思う。
ただラストシーンは、内容こそ衝撃な的事象だったが、その怖さや異常性が今ひとつ機能していなかったかもしれない。訪れた異星人との感覚の違いや、実は観客の立場に一番近い殺人犯の感情の揺れなどで、もう一つ奥を見せられる気がした。


4.公募枠「なごやかな」
アリに生まれ変わってしまった男が暮らしている町に住んでいた家族。幼い娘はアリの巣を壊し、アリを潰したり蜘蛛の巣に投げたりして一人で遊んでいた。多くの人の記憶にもある風景かもしれない。子供とは、社会を知る前は得てして残虐性を持っているものです。ただ、黙々とアリを攻撃する彼女はそこへの固執が深く見え、日に日に身体や顔に傷が増えていった。そうか、これはいじめの連鎖や、代々繰り返される虐待をテーマにしている物語なのだと思った。そしてそれが生々しかったのは、言葉での状況・感情説明を避け、増える傷や、真意を押し殺した演技で表現されていたからだ。と思いました。アリに生まれ変わった男は、急に最弱者の立場に変わり、仲間が虐待されてもただ傍観するしかなく、虐待する側は大きな罪の意識もなく、仕打ちを受けた者は、より弱い者に仕打ちをする。そんな傷さを孕んだ作品。戯曲の完成度が高かったです。
ゆえに、演じ方に欲を感じてしまいました。淡々と演じる手法はいろんな団体が用いていますが、実は楽に立っているようで大変なことをしています。演じ手の内側の熱量や集中力が緩むと途端に、立っているのが「登場人物」ではなく、「演じている俳優」に見えてしまいます。また、周りや他の人物からの影響を、より繊細に感じ受けて、その上で発信しないと、なんの揺れも感じられないまま、シーンが進んでしまいます。音の高低、圧・間なども綿密に演出する必要があります。そういったことも含め、独自性を追求していくと、さらに面白いものができ上がると感じました。

 

◎Cブロック

 

1.魚眼ベニショウガ「すがりつく病的な私」
「大好きなあの娘と付き合いたい」実に太くて明快な思いが一本通った内容。そしてそれがうまく行かないことでさらにその思いが強くなり、脱線がエスカレートしていく。それが肝かと思うのだが、その仕掛けの遊び方が惜しいな、という印象。
冒頭、とある男が美少女に恋をしていて、「彼女に近づきたい」という基盤を見せた後、長めの暗転があけると、とても大きなクマのぬいぐるみ(以下クマ)に包まれて男が寝ていた。期待度が上がる。だが、そのクマがどこからやってきたのか、どんな存在かわからないままに、目覚めた男は多少驚きはするものの、それを普通に受け入れてしまう。ゆえに、彼は普通の日常を送る少年ではなさそうに感じた。クマに問いかけるように何かを呟いた男は突如、クマが、自分の中に答えがあると言っている、と言った。その後も、「どうすればいいのか」など、クマに話しかけはするものの、男の演技からは、クマから何か言われてそれが聞こえているとは感じられなかったため、その存在が彼の思考にあまり影響がなく、彼が一人で悩み、一人で決断しているように見えた。
やたら足だけ長い巨大なクマのぬいぐるみ、喋らないことで謎めいた雰囲気を強く感じる美少女、その彼女が足が速い男が好きだと聞いて特訓し世界記録を超えてしまう男、「個性」をTシャツ一枚で済ませてしまう男の短絡さなど、おもしろい種がたくさんあるが、それが一連の作品にうまく作品の効果に繋がっていないのが残念でした。


2.劇団ひととせ東海支部「拝啓 雨、 恋、 手紙、 空。 」
詩的な語り口と文字などの映像投影を用いた、朗読風の演劇で、印象的な上演。映像の使い方も、既視感はあれど効果的な使い方がされており、音響・照明と共に、世界観を巧く作りだしていたように思う。タイトルでも表しているように、たくさんの言葉を並べつつも、その隙間にある言葉にはならない「想い」を描きたかったのでしょうか。耳から脳にすっと入ってくる言葉の選び方も効果的で、語りを務める女性の天性の?明るさや語り口が、白い空から降りしきる優しい雨の風景を想像させ、物語の中の哀しみを際立たせていました。
が、物語のキーワードにもなっていた「平凡・非凡」の定義が気になりました。一組の男女が、自分とは違う魅力を持っている相手と恋に落ち、死を以って離れ離れになり、さらに死を以って繋がりを得ようとする。「非凡」とは。気になって辞書で引いてみた。語学的には「普通よりも優れていること・さま」「異例」「とてつもない」「途方もない」。語学的な部分だけでは分けられないかもしれないけれど、舞台上で語られている非凡のエピソードは「果たしてそれは非凡だろうか」と思うことが大半だった。それは意図的に、自分にとっては平凡に思えることでも「他人から見たらとても特別なこと」なのでは?という、観るものへの問いかけだったのでしょうか。この講評文を書いているうちに、そんな気持ちになってきました。


3.fooork「ユニアデス」
一台の一輪車と2つの傘、3人の俳優で紡ぐ物語。小道具がとても効果的・印象的でした。
雨の中、車を走らせる一人の女。遠い故郷に住む両親と電話で話す。案じる親の言葉をどこか面倒だと感じているようだ。話を終え、考え事をした瞬間、車は激しく衝突、女は意識世界へとトリップする。それはまるで、眠りの浅いところでみる夢のように、いくつもいくつも次から次へと、どこかおかしな世界を飛んでいく。夢うつつの中で彼女は一つの考えにたどり着く。大人になって独立したと思っていたが、それでもやはり、誰かとつながりを持ち、陰ながら支えられているということ。
一人の女性の体験を、不思議な世界観で惹きつけながら、最後まで魅せ続けていた。夢の描き方がとにかくリアルというか、夢を見るときってこんな感じだなと思った。あり得ないことが、さも当たり前のように存在し、営まれている。そしてそれはどこか、その時のその人の精神状態や、うっすら聞こえてくる声などに左右されている。多分、救急病院に運ばれて治療を受けているところから夢が始まっている。だから医師によって女の手に一輪車が取り付けられ、これで歩けるようになる、どこにでも行けるという夢を見た。そのあと彼女が飛んだのは「職場」。とにかくうるさくて、次から次へと追い立てられている。これも現実の、働く毎日を歪ませたものだろう。こういった具合に、なぜそういう場所なのか常に根拠があって、それを演じ手それぞれがちゃんと腑に落として演じているため、迷子にならずに観ていられる。聞けば一人を除いて、普段は演劇ではない創作活動をしているメンバーが集まった集団だそうだ。総合的なクリエイションが、巧く作用していたように思う。
全国大会に向けて、演技面も含め、さらに精度を上げていくことでしょう。

 

◎Dブロック

 

1.随想あけぼの「かの夢」
冒頭からかなりの尺を、夏目漱石の小説「夢十夜」の文章そのままに俳優が演じている。臨終間際の女が連れ合いの男に「墓の前で100年待っていてください。そうしたら私はまたあなたの前に現れます」と言い残し、息を引き取る。女の亡骸を庭に埋めた男はその墓の前に座り、99年が過ぎた。ここまでは、夢十夜のまま。そこへ、男の古い友人が訪ねてきて、そんなことは無駄だからやめろと言い放つ。さらに、男の母親がやって来て、この子は強情な子で、頑張っているので見守りたい、という。この辺りは創作かと思われます。そして所々「夢十夜」の中の文章を入れ込みながら、ラストシーンはまた、「夢十夜」そのものの文章に戻る。ある日墓の前に花が一輪咲き、そこに落ちてきた露にによって花は揺れ、男はそれが彼女の生まれ変わりだと感じる。そして、いつの間にか100年経っていたことに気づく。
この作品にはまず、大きな問題が一つあります。「原案:夏目漱石」と記載され、作品情報ではそれ以外は何も書かれていません。つい最近、某映画でも問題になっていたように、これは原案ではなく、原作・夏目漱石、さらには小説「夢十夜」引用と示すべきかと。原案とは、着想のスタートにそれがあり、違うあらすじで進んでいくものです。他者が書き上げた文章を自分が発案したものと取られないように、作り手は原作者や作品への敬意を忘れないようにしないといけません。これは、私自身もあらためて気をつけようと思いました。
創作の部分について。かつての友人(少なくとも100歳超え)が若い姿で出てくるのは、演劇ではよくあることなので引き受けられますが、そこへ母親(少なくとも120歳近く)も現れます。幻覚?それとも長生きなの?長生きの国?もしかして99年というのは数え間違いで、本当は10年くらいなの?色々な疑問が疑問のまま、登場人物の論議は終結し、ラストシーンへ。ああ、夢十夜に戻ったなあ。という感覚で、見終えました。ただ「そんなことやめろ」という友人と「この子は頑張っているんです」という母親の間で黙って座っている男の様が「やめるにやめられなくなっちゃってる人」に見えておもしろかったです。
俳優の演じ方も気になりました。どこかで見た、誰かの演じ方を、なんとなくの表層の雰囲気でまとめてしまっているように見えました。なので、その登場人物が何を考えているかわからない。近代文語だからという難しさもありますが、人物のその時々の感覚の掘り下げをもう少し大切にすると、演技から台本と演出を追ってるっぽさが消えると思います。
名古屋では他であまり見られないことに挑戦している団体かと思うので、ぜひ自分たちのスタイルを確立してほしいです。

 

2.モルモット「トキヲカケル」
くるかもしれない未来でしょうか。人型のAIロボットを、より人間に近づけるために、そのロボットの過去の歴史を作る職業が誕生し、それを生業とする者は「シナリオライター」と呼ばれ、社会的地位を確立している。かつて学生時代に小説家(脚本家だったかもしれない)を目指していた男が、シナリオライターとして働いていた。書きたいものを書くわけでもなく、生きている実感を持てなくなった男の現在と回想の中で、モノローグと会話で構成された話が進んでいく。世界設定は、いろんな可能性をはらんでいて面白いなと思った。
思い悩んでいた男が、昔の仲間が過去に言った「ある一言」をきっかけに自分を取り戻していくのだが、かなり悩んでいたのに、前向きになるに至るまでが少々荒っぽい気がした。最終的に踏み出す時のきっかけは小さく些細なことでも成立すると思うのだが、そこまでに至る経緯が弱いように感じる。
というのも、この男は仕事中など、他者に囲まれている日常生活の中でも、第三者の前で苦悶を滲ませ苛つきを見せている。そしてモノローグの中でも、同じ温度で苛つき苦しんでいる。ということは、心を許しきってるとは思えない仕事関係の人たちの前でも、本心をさらけ出しているということだ。なかなか、そこまでの人はいない。そして、隠せないほど余裕がない苦しみの中に陥ったところから、光を見つけるのは容易ではないが、持ち直すに至る経緯が読み取れなかった。逆に、そこまで辛そうでイライラしてる人がいる職場のみんなが、どうしたのと聞くこともなく、避けたり、噂したりしていないのがなんだかうすら怖いというか、それこそ人の心が見えなくなっている人間の機械っぽさに恐ろしさとドラマを感じた。

 

3. 名古屋芸術大学演劇部超熟アトミックス「メリー」
一人の若い女と、その子の夢の中に現れる女を中心に物語が進む。暗転で、目覚めている時と夢の中を区切っているのだろうか。突然目覚めるからか、急に暗転になることもある。RPGでセーブするように、夢はまた続きからスタートする。夢の中の住人は、どうやら「消えたくない」と思っているらしい。現実に住む女は、何か悩みを抱えているようだ…が、今ひとつ、話がうまく入ってこない。
その要因の一つとして、登場人物が、いえ俳優が、会話・意思・意識やりとりをうまくできていないように感じた。何か伝えたいことがあるにしては、ほぼ全ての台詞の途中で目を逸らしてしまい、相手に届いていない。また、観客の存在が気になるのか、俳優同士、真横に向き合っているはずが、大半、舞台奥の方に身体が向いている。
つまり、人物同士のやりとりよりも、個々が他の何かに気を取られているのが伝わってきてしまい、こちらもそこに意識が行ってしまう。うわの空でされている会話を、上の空で覗いている、という感覚でしょうか。
あと、「夢の中」という設定にしては現実世界との落差がが少なく、これは友人同士の会話じゃ駄目なのだろうか、とも思った。「夢の中」という設定を思い切って遊べると、もっと話に膨らみを持たせられたかもしれない。

 

4.シラカン「くじら」
冒頭から心を奪われた作品。無作為に選ばれたという4人の男女が、大きく長いものを運んでいる。ステージ後ろの暗幕は開かれていて、町が、広い空間が広がっている。膨らんだ黒いビニール袋が繋がったそれは、引いても引いてもまだ繋がって出てくる。浜に打ち上げられた動物の死骸だというそれは、きっとタイトルにある「くじら」だ。指定の場所まで移動させて処理しなければならないが、女二人は触りたくないという。一緒にやるべきと主張する男、もう一人の男は黙々と作業を続け、引きずるうちに町中に残ってしまった残骸を集めに、その場を離れる。
人間関係のステータスが状況に乗って移り変わり、次はどうなる?と惹きつけられる。「汚いから触りたくない」という身勝手な女たちに初めは遠慮しながら主張していた男も、遂には怒りの頂点に達して奇行に走る。我慢していたからこその爆発。そのせいで男は命を落とし、女の一人は騒動の中でくじらの死骸の切れはしが自分に付着したことで、「これは汚くない」と主張を変えて、もう一人の女にも作業を強いる。その自己の防衛と正当化による価値観のひるがえしは、鮮やかで説得力がある。そして帰ってきたもう一人の男は、このおかしな状況も意に介することなく、作業を続ける。一番社会性があると思っていた人こそが実はサイコパス的な気質を持っていたという捻れを孕んで幕を閉じる。
俳優の演技力、舞台の使い方、舞台美術の圧倒的迫力、惹き込まれる展開。総合的に地力がすば抜けていた。全国大会への審査対象とならない圏外枠でなければ、間違いなく推していました。

 

以上です。
皆さま、まずは本当にお疲れさまでした。これからのご活躍を楽しみにしています。


突劇金魚 主宰

サリngROCK

 

◎Aブロック


1.劇団バッカスの水族館
作品で描かれている夫婦の状態について、「目を瞑れば解決する」とは思えないところで、疑問が生じました。途中、目を瞑って声だけで誰が話しているかを当てさせるシーンがありましたが、そのシーンでも、声で誰かを当てられていたように、目を瞑るだけで何もなくなるわけじゃない、声の情報もすごく重要だと思えます。(実際、声で当てられたし)そこを無視して「目を瞑れ、見ないようにしろ」だけで通そうというのはやはり無理やりだと思います。「ぽい」言葉を並べられただけのようにも感じてしまいました。「夫じゃないと思えばムカつかないでしょ」というようなこともセリフで言われていましたが、作品で描かれている状況や言葉は、「同じこと、他人に言われたってムカつくんじゃない?」とも思いました。やはり「ぽい」言葉を並べているだけでは…?
「本当はそれじゃあ解決しないよ」という逆の意味を提示するための設定だとしても、なぜあの妻が納得させられたのか分からないので、あの宗教団体の説得の仕方にもっと、「あーなるほど」と思わせる必要がある気がします。
ですが、その疑問点を無視して劇の構造をじっくり見れば、奥さん側からの視点、夫側からの視点、家庭内の視点、外で友人に話すときの視点、など、いろいろな角度から物事を考察しようとする態度が見えて、それがとても良かったと思いました。作品がその分、重なって濃厚に感じられることに成功してると感じました。
群唱(で言われている内容については疑問ですが)や、被り物、明るいシーンや静かなシーン、さまざま取り入れられていて、飽きさせないようにしようとしている工夫も感じられて良かったです。


2.女塾
3人とも、役者が魅力的だと感じました。人間の深みに迫るというような戯曲ではなかったですが、その役としてしっかり地に足をつけて、笑うお客さんに流されない、お客さんに媚びない演技をされていたと思いました。
ただ、積極的に推せないと感じていました。その理由がわかったのは審査員会で話し合ったときで、綾門くんから出た「『ゲイです』というセリフ(設定)の扱いについて」、私もそこで引っかかったことを思い出しました。
「ゲイです」だけでは笑えないです。別にゲイはなんにも怖くないですから。
キーパーソンであるあの水中眼鏡の登場人物の設定、もっと独自の視点でこだわってほしかったです。


3.在り処
今、現在、実際に思っている感情を大切にそのまま作品にしたような印象で、それがとても好印象でした。自分を切り刻んで見せている感じ。嘘の感情が一切なくて、切実な「今」の気持ちを大事にした作品で、今でしか作れないだろうなというところはとても良しと思いました。
ただその分、客観性がとても低いので、「この出来事」に対して感情移入していないお客さんはなぜそのことがそんなに重大問題なんだろう?と思えてしまうと思います。
「乱暴にSEXされた」ということは本人にとってとても重要かもしれませんが、客観的に見ていると、「自分から告白した。」「告白してつき合うことになった彼氏に乱暴にされた」だけでは、ラストの台詞「死ね」に至ることへちょっと動機が弱いと思ってしまいます。(乱暴の度合いも大きくないように見えたので)
客観的に見ても「それは『死ね』だわな!」となるほどの出来事が欲しいなと思いました。もしくは、まさか絶対に乱暴にSEXはしないだろうと予想され得る人物像にする、という角度も有りかもしれませんが…。(こんな性格だと思わされていたのに、ちがった、、、というような。)


4.劇団イマココデ
今まで提示してきたものが全部「ゲームの中でした」というどんでん返しに持っていくアイデア自体はいいと思いますが、それにしたって前半をもっと惹きつけるようにしないと、20分の持ち時間しかないのに、10分以上「おもしろくないな」と思われてしまうんじゃないかと不安になりました。
さらに、(綾門くんの講評でありましたが、)どんでん返し以降の演技が、どんでん返し以前とあまり変わっていないことが良くないと思います。
「背景がプロジェクタの映像ではなくなる」ってだけでは、ただの「説明」でしかないので、人間が演じることの意味やおもしろさが意識されてないんじゃないかなと思ってしまいます。
「ゲームの中のような人間」「現実の人間」この二つの、それぞれの「良さ」「悪さ」をそれぞれもっと考えてもらって、「ゲームのような人間も、良い部分がある」という視点を強く持って前半の機械的なシーンを楽しめるように作ってもらえたら、「ゲームみたいな人間も、こういう部分では良い。だけど、現実の人間はもっとここが良い」と、さらに展開できる、もっと広がりのある作品になったと思います。
私がこの劇を見て一番初めに思ったことは「就職して、ずっと評価されなくて、だけどひょんなことでひとつ仕事を任されるようになって、初めは困難に思えたけど、ふとした偶然で解決の糸口を見つける」という一連が「幸福である」とされていることが、とても恐ろしい、ということです。20歳前後の未来が膨大にある若者があんなことを「幸福」と捉えているなら、悲しいです。怖いです。そう思わせてくれたことは劇として強いと思います。が、それを、皮肉ではなく、そのままそう(幸福として)捉えて表現しているなら、是非とも考えを改めてほしいと思います。もっと、自分だけの「幸福」があるはずです。


◎Bブロック


1.劇団いかづち
「スイーツの名前を書いた紙を首から提げている男」が「なんなのか」、これが最大のポイントです。
この「妙なモノ」を買ってこられてしまった主人公の女の子が、「なんなのこれ!?」ってなるのは、OKです。でもほんとに「これ」は「なんなん」でしょう?
形は一応「人」で「男」です。
なので、その「人」に対して「なんなのこれ!?」という言葉もおかしいです。
「初対面の「人」」にそんな言葉は言わないです。
「あ、どうも…」とか「だ、誰ですか…?」とかになるのが、通常の反応だと思います。
「なんでこんなの買ってきたの!?」もおかしいです。
「売っていたこと」は認めている言葉だからです。
「スイーツの名前を書いた紙を首から提げている男」は「売っていた」とは観客は信じにくいです。
不思議な出来事が起こること自体は全然いいです。
でもその不思議な出来事が、日常の中で起こった場合、日常に暮らしている人は「通常の反応」をしてもらわないと、日常が日常だとも信じられなくなってしまいます。
友達は、コンビニで買ってきたと言います。友達には本当に「ただのケーキ」に見えていて、主人公にだけ「首から名札を提げた男」に見えるなら納得できます。だけど今回この話では、友達にも「これ」は「首から名札を提げた男」に見えているようです。だったら、コンビニで、どういう状態で売っていて、友達はなぜ「これ」を買おう、と思ったのか、納得できません。「首から名札を提げた男」を「コンビニで買ってきて」平然としている友達。不条理な物語として、友達の態度が堂々としていればまだいいですが、「なんでこんなの買ってきたの?」という問いに「さあ?」というような態度を取られると、観客はわけがわからないままです。手がかりがなさすぎて…。誰の言葉を頼りにこの物語の世界を見ればいいのかわからなくなってしまいます。友達が「これ」を買ってきて当然と思っているならばもっと堂々と「なに言ってんの、早く食べなよ」ぐらい言ってほしいものです。そうすれば観客は「主人公は不条理の世界に一人だけ迷い込んだのかな」などと想像が働かせはじめられます。
とにかく、前提の世界をきっちり決めておいてほしいと思いました。
そうすると、「なぜ独り言を言う相手がケーキなのか」「なぜそのケーキが主人公の過去を知っているのか」「《コンビニで売っていたもの》でいいのか」もっとハッキリして、お客さんがこの物語をどう見ればいいのか提示できたはずです。
<悩める主人公><ひょうひょうとした友達><わけのわからないもの>という三角関係は何か物語が生まれそうなので、追求してほしいところです。


2.劇団かのこ
「夏休みをはじめる」とはどういう状態でしょうか?
「夏休みがはじまらない」とはどういう状態でしょうか?
毎日学校で授業があるんでしょうか?先生はそれにつき合ってくれるのでしょうか?夏休みが始まらないと、主人公は何が困るんでしょうか?

劇団キャラメルボックスさんの作品で「ナツヤスミ語辞典」というものがあります。
この作品は、私はすごく好きなんですが、この中にも、夏休みがはじめられない女の子が出てきます。
彼女は、プールがすごく嫌で、プールの授業を全部休んでいたんです。それの罰として、夏休み中、プールの補講があるのですが、その補講の日、プールの水が抜かれていて、なかなか補講が出来ない。補講ができないってことは、毎日「補講の補講」の予定を入れられて他の夏休みの楽しみ(みんなと遊びに行くことなど)が出来ない。(補講が出来ないので、罰としてプール掃除や図書室の整理も命じられてしまう)(プールの水を抜いているのはもちろん彼女)
彼女が補講を受けない限り、彼女も、それにつきあっている友達も、結果的に夏休みが来ない。
だけど、彼女は言うんです。
「私は、プール掃除もするし、嫌いな食べ物も食べるし、いろいろイヤなことをやっている。(夏休みもなくていい)他のすべては我慢してできるが、たったひとつ、プールだけは嫌。嫌なのはプールだけなのに、他は何でもできるのに、なぜこのたったひとつの嫌なことをしなければならないのか?大人はしなくていいのに」
この、すごく共感するセリフ!
この肝があるので、みんながワクワクする夏休みに毎日プール掃除しててもいい、してるほうがいいって心理が際立ってきます。

劇団かのこさんの「夏休みはじめました」は、その主人公の夏休みへの想いがハッキリしていないので、観客は主人公が「夏休みをはじめたい」思いを共感しにくく、応援しにくくなっています。そして、何を追っていけばいいのか分からなくなっています。
そして、作者自身もそこがハッキリしていないので、はじめは「夏休みを始めるために反省文を書かなければいけない」という方向だったのに、
「夏休みが終わるのが嫌だからはじめない」となり、「浴衣」の話になり「母と娘」の話になり、「やっぱり夏休みをはじめたい」となって終わってしまう。
いやいや!そもそも、「夏休みを始めるためには反省文を書かないといけない」って話だったのに!「夏休み、はじめるわ」の一言で、はじまってはいけない!
そんな、「作者のブレ」を感じました。
役者たちもそこを疑って、自分の役は何を目的として行動しようとしている人物なのか?話し合えれば良かったかもしれません。
ただ、みなさん演技がとても元気でハキハキしていて、さわやかだったので、お客様からの印象が良かったと思います。
役者が数人出演していましたが、全員個性がハッキリしていて、しかも同じようなキャラクターがおらず、みんな独立して目立っていて、良かったです。
夏休み、というモチーフにふさわしい元気でさわやかさでした。


3.でんでら
脚本の段階で、ここまでに述べた、「この出来事がどういうことか」がハッキリ決まっていることが魅力でした。決して難しい本ではなく、奇抜だったり斬新だったりすることもなかったですが、背伸びせずに自分の分かることでキッチリ書ききっているようで好印象でした。また、この出来事がどういう目的を孕んだ出来事なのかを役者全員で共有して目指して行けていると思いました。
「血のつながった親よりも、他人や、種族すら違う宇宙人とのほうが家族関係が築ける」という思想は私もとても共感するところでした。
血のつながった親に虐待されつつも、ニコニコしている娘役の子の表情が光っていました。ニコニコした中にも、本当は怖かったり怯えたりする気持ちを含ませた空ろな表情が印象的でした。宇宙人兄妹に家族になろうと迫られるところの「うん」という返事も、間をうまく使って、表面上の言葉だけではない本当の気持ちを覗かせられていました。
宇宙人の兄妹、泥棒の二人の演技も的確に役割を演じられていたと思います。
鍋の効果音で暑苦しさが増したり、赤い光で不気味な感じを強く印象付けたり音と灯りの演出も効果を高めていると思いました。
ここだけではなく、他のチームにも見受けられましたが「回想しまーす」と、演劇をしているポーズをしてしまうところは、残念です。その表現を使わないほうが、世界観を保てるのにと思います。


4.公募枠
特に脚本と演出が良くできていたと思います。
「いじめられるような弱い奴は早く死んでしまって生まれ変わるのを期待した方がいい」という思想の元、「弱者」を「蟻」に見立てていること、その蟻をいじめている妹がまた学校ではいじめられている、という構図ができていること、その妹が「蟻なんか早く死んだほうがいい」と言うことで自分もまたそうなんだ、と言えていること。そして、説明を極力省けていて、観客の想像力で成り立たせていること。(妹はいじめられているとは、一言も出てきていないが、傷が増えていくことで想像させられる)よくできていると思いました。
また、特にいいのは、そのすべてが、単にシリアスでなく、コミカルさが含まれた表現になっていることです。観客は、身構えることなく、笑いながら肩の力を抜いて劇を見ることが出来て、その中に差し込まれる鮮烈なネガティブな思想(いじめられるような弱い奴は早く死んで生まれ変わりを期待するほうがいい)にドキッとさせられます。
コミカルを助ける脚本、演出、俳優の仕事が良かったです。
見た目の画(え)作りも工夫がされているところが多く、単純に楽しめました。
大黒幕の真ん中を開けるとそこに蟻が座っていて、観音様のようになっている画(え)は一番好きでした。


◎Cブロック


1.魚眼ベニショウガ
美人のマドンナを振り向かせるために泥臭くいろいろ頑張る青年、という設定はとても
魅力的です。どんな頑張り方をするか、どんなふうに振り向かせるか、想像が広がります。
ですが、結構多くの箇所で主人公の行動、気持ちの変化の仕方に「なんで!?」となってしまいました。
走るのが早くなろうとしてめっちゃ頑張って世界最速になったのは良いと思います!そんなに出来る男がまだまだ頑張り、どんどん変容していく様を見れるのはおもしろそうだと思いました。
でも、なぜかすぐに挫けます。努力で世界最速の男になれるような、そんな努力を出来る男が、「個性的」になることをなぜそんなすぐに諦めるのか???
どうやって世界最速になったかは分からなくていいです。
でも頑張って世界最速になれる男が、次の課題ですぐに挫ける理由はすごく疑問です。また頑張ればクリアできるんじゃないの?と期待を損なわれた気持ちになります。
途中で、お客さんの一人を犠牲(いけにえみたいな?)にすればいいんだと気づくところがあります。そう気づいた理由は分からなくてもいいです。で、犠牲にしようとします。その方法が「敬礼して「さよなら!」と言う」でしたが、これで本当にお客さんが犠牲になってしまうのなら、いいです。この世界では、もしくは、あの彼なら、その方法で「お客さんを犠牲に出来る」世界観なんだ!と思えます。でも、「無理だったか…」と言います。無理なんです。本当の現実と同じように、敬礼して「さよなら!」では「お客さんを犠牲にできない」世界なんです。だったらなぜ彼はそれが可能だと思ったんでしょうか??それはとても疑問です。

もちろん全部のことは説明しなくていいですし、分からないことが面白いことは多いです。
でも分からなくておもしろいこと、と、疑問に思ってしまうこと、はやはり違います。

なぜどうやって、世界最速になったかは分からなくていいです。面白いです。
敬礼して「さよなら!」と言うと、お客さんを一人犠牲になる、なら、なぜ犠牲に出来るか分からないですが、いいです。面白いです。

でも、努力で世界最速になれる男が、個性的になるのを簡単に諦める理由は欲しいです。
敬礼して「さよなら!」と言ってお客さんを犠牲に出来ない世界で、なぜ彼がそれを出来ると思ったのか、それは知りたいです。

面白くなるなら、理由なんかいらないです。
でも、個性的になるのを諦める、とか、犠牲にするのは出来なかった、は面白くなる展開だとは思わないので、そこで「なんで?」と思わせるのは不利ではないでしょうか?


2.劇団ひととせ東海支部
見せ方に工夫があり、セリフも詩的で、観客を楽しませようとする意欲がとても伝わりました。
平凡を愛した女が、自分は非凡だからきっと不慮の事故で死ぬに違いないと思っていて常に遺書の準備をしていた、という設定がとても魅力的でした。
ただ、その中心に据えた「平凡」と「非凡」という思想を突き詰めているか?「ぽい」ところで終わってやしないか?と思ってしまいました。
劇中で、「平凡」と括られた中にあるとする事柄をいくつか挙げていました。しかしそのどれもが、それは「平凡ではない」と言えるのではないかと思いました。
また、逆に「非凡だ」として語られた事柄もいくつか挙げられていました。それもまた、平凡だと、言えるようにも思えました。
平凡さ、非凡さを一般的な視点でとらえるのはとても難しいと思います。どれもが平凡だし、どれもが非凡だからです。だから、超個人的な思想に変換したほうがいいのでは、と思いました。
劇中に登場する「平凡を愛する女」、「彼女が愛する平凡さ」が、具体的にどういうことなのか決めてしまってそれを教えてくれる方が納得できる、ということです。「一般的な平凡」ではなく、「彼女が愛する平凡」です。「彼女が愛する平凡」なら、一般的には平凡だと思う人もいて非凡だと思う人もいていいのです。観客は、一般的な平凡が知りたいわけじゃなく、登場人物がどんなことを大切にしていたのか知りたいです。


3.fooork
本当にわけがわからなかったです。でも、面白かったです。最後まで目が離せない魅力がありました。
その原因は、この作品が、一つ、筋が通った強い芯を持っていて、その芯を作り手全員が分かっいてて、一つの方向に向かって走って行けていたからだと思いました。例えば「これはどういうこと?」と質問すればはっきりと何かが返せる、ということです。
でも、一度目に見た時は、わけがわからなさすぎではないか?と思いました。
また、一輪車をいろいろな動きで見せられていたし、いろんな使い方をしていましたが、それが一輪車の形のままであるのがいいのか?疑問に思いました。もしかしたら初めは一輪車に見えない装飾?や改造がしてあって、(例えば劇中の台詞に登場する「機械」に近い見た目)最後にその機械にまたがって走るときに、一輪車だったのがわかる…の方がいいのでは?と思いました。
ずっと「なぜ一輪車なんだろう?」と思いながら見てしまうからです。

そうは思いましたが、ずっと食い入るように見続けられたことはとても、とても素晴らしいことです。
スピード感、先の読めない展開、1シーン1シーンのアイデア、俳優の声や表情の説得力の結果です。
どんどん汗をかいていく俳優3人がとても美しかったです。

また、選曲が良かったです。曲が入ってくるタイミングもとても気持ちよく、センスを感じました。後で聞くと、曲はオリジナルで作ったそうですが、なおのこと素晴らしいと思いました。

 

◎Dブロック


1.随想あけぼの
他の劇団が舞台美術が簡素だった分、やはりインパクトがありました。(他と違うということがとても大事だと改めて思いました!)その美術自体、単体で見てもかっこいいのですが、蝶のつらなりの向こう側を歩くと、竹やぶの中を歩いているような印象にもなったり、夢の中で靄がかかってあまりよく見えない、というような効果を産み出すことも出来そうでした。
作品の感想としては、俳優の演技が人間の心理に沿っていないのではないかと思われました。
一番大きく思ったのは、「100年待つ」という事柄についてです。
人間は「100年」は待てないですよね、普通。大抵。その無理難題を言い放つことをどう捉えて演じているのかな?となりました。
随想あけぼのさんの皆さんはみんな、「100年待てる」と信じているように見えました。その根拠が「ロマン」に見えて、だけど「ロマン」があっても、実際100年という人間の体や寿命に限界があるのは確かで、それを無視されていては、この話自体をどう見たらいいのか分からないと思いました。「実際人間は100年待てない」だけど「100年待ってて」と言う女。それに対して「100年待つ」と言う男。そこには、「実際100年待つ」以上の意味があるはずなんです。それはかぐや姫のように、架空の龍の玉を取ってこい、ということかも知れませんし。どうせそれは無理って言うんでしょ、と試しているのかもしれません。男の残りの人生を棒に振らせようとする怖い動機かもしれません。しかし何かしら「100年待つ」という非現実を成立させる現実的な理由が必要だと思います。


2.モルモット
私も作家のはしくれなので、「書けない」という話にはとても共感します。
「書けない」苦労は本当に、息が詰まりそうなほどしんどいです。
で、しんどいしんどいとなっていると、こんなに苦労して「誰のために書いているのか」「なんのために書いているのか」という考えに至ります。そこで作家はそれぞれの答えに出会うのだと思いますが私個人の答えは「誰かのために書いていない、自分が自分で読みたいから、もしくは、自分で書けたという充実感が欲しいから」書く。
そんな私の意見です。
終わり方を悩んでいる、ということが本編中に出てきますが、終わりの手前まで書けてるなら、それはもう「書けてる」ってことやろ!と思うタイプです。なので、「終わり方を悩んでいる」のは羨ましいので、それを「作家の苦悩」とする面ではちょっと共感しにくかったです。「終わり方を悩む」ということは、こんなにツライことなんだ!と説得されたかったです。
また、作品の中で、書いたものを読ませた友人に「私は嫌いじゃないよ」と言われるシーンがありますが、「嫌いじゃない」ってそんな上から目線の感想、なんやねん!と思いました。すごい大変な思いをして書いたものを「嫌いじゃないよ」って!!!「好き」なら「好き」「ここは違うと思う」なら「ここは違うと思う」ちゃんと自分の「意見」で返してよ!と思います。「嫌いじゃない」ってなんや…。そんな風に、読んだ作品と向き合ってくれない人の意見は全然気にしなくていいです。モルモットさんの作家さん自身は「嫌いじゃないよ」って言われて嬉しいのでしょうか?
と、作家として見ているばっかりに、「書くこと」というモチーフへの追求が甘いような気がしてしまいますが、「シナリオライター」という職業が生まれたという設定や、歴史を入れていない人間を四角い紙の顔で表現したりと工夫されていて、空想を楽しんでいるのが伝わり、その点、好感を持ちました。


3.名古屋芸術大学演劇部超熟アトミックス
声が小さいなと思いましたが、無理に演技しようと言うのではなく素朴に素直に舞台に立っておられたのが好印象でした。まずは嘘がないこと。大事だなと思いました。
喋りたい相手に向かって喋ると客席に背中を向けてしまうんだ、というときは、もう客席に背中向けて立っちゃう、とか、はじめはそれでいいんじゃないかなと思います。とにかくその場にいる登場人物がやりたいことを遂行することが大事と思います。(見せ方は演出が決める、前を向かせたいなら、前を向けるような理由を演出が作ってあげることです)
作品の内容としては、月の絵や魔王の絵の雰囲気と、役者たちの柔らかい雰囲気が合っていて独特の世界観を作ってました。
ただ、脚本としてはやはり、他の多くの団体と共通してモチーフをつきつめられていないんじゃないかと感じました。
夢は、見ている本人が操作できるわけじゃないですよね。本人が嫌だなと思うことも夢に見るし、希望通りに進まないのが夢ですよね。だから、夢の中の登場人物が、夢を続けて(また登場したい)から、夢を見ている本体の人間(?)に気に入られようとする、というのは、成立しないのでは?と思いました。本体が気に入ったとしてもまた同じ夢を見れるかどうかわからないから…

 

4.シラカン
とても面白かったです。観客はシラカンのワールドにどっぷり浸れました。
不気味な大量の塊。どんどん出てくるごとに不気味さが増し、期待度が増し、目が離せなくなりました。

俳優の体、反応に生身の人間の実感がありました。
気持ち悪いものには触りたくない。
緑の汗は気持ち悪い。
不気味な黒い物体の間から発見されたコーラは飲みたくない。
舞台上で起こる事柄、それに対する役者の反応は、お客さんもちゃんと納得するものでした。
起こる出来事にきちんと人間として反応し、その反応が滑稽だったり、ずるかったり、ばかばかしかったりして、「人間の面白み」を感じられることが演劇のおもしろさです。
今回、演劇祭全体を通して、人間として反応している団体が少ないように感じました。(「それ、なんでそうするの!?」とか、「なんでこうならないの!?」「何考えてそうやってんの!?」がとても多かったです。)そんな中、シラカンさんの俳優さんたちはみんな、人間でした。
演出、脚本、俳優、見事でした。
20分の短編演劇祭に出すものとしても、他との差異がつけやすい工夫がたくさんあり(インパクト絶大の黒い大きな小道具、大黒幕を開ける、など)さすがでした。